Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

dz4

615.2023
ヒラリー・パトナムなんかよりは(ましてその他の少なくとも当時の有象無象の分析哲学者よりは)はるかに徹底していたけれど。ちなみにパトナムの量子論解釈はダメダメ。
しかし結局不徹底だったな。
いやあこれ程一見したなるほど感の勘違いとその直後のギャップがひどい(永井さんが引用している)元ツイート(スレッド)はじめてで驚いてしまった。とくに二つ目はひどい。これは何かの特技だろうか? twitter.com/hitoshinagai1/…
傑作『彼女がその名を知らない取りたち』での竹野内豊のクズっぷりは完璧だった。松坂桃李のクズっぷりも劣らず完璧だった。もちろん阿部サダヲと蒼井優は完璧!!
「(自然)主義」(一般に「主義」)は言語的規範化の作用を排除することができない(または言語的規範化の作用そのもの)。逆に言えばそもそもの端緒から「physis フィシス(ラテン語以降の「 #自然 natura」のギリシア起源)」がそうであった。
ここでのコア的なポイントは、「(岩盤としての)自然主義」であって「(岩盤としての)自然」ではないということである。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
狭い意味でも解答はおろか決定的な解釈もない。形而上学の土俵で考えるしかないかもしれない。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
古くて新しい問題 twitter.com/sitasimiyasui/…
@sitasimiyasui 観測問題そのもの。狭い意味でも。真面目な話
614.2023
ある程度の割合での比喩だが、この<私>による量子論的な<次元=場>における<記述>を行っている。
@charis1756 『ドライブ・マイ・カー』よかったですね。
#マルクス 『資本論』を土台に社会変革を目指す全ての哲学・思想は、労働力(者)の「動かしにくさ」に賭けることになる。
問題はその先
哲学の究極の問いの一つ twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
wakariyasui.sakura.ne.jp/p/mech/unndou/… いわゆる理系には常識だが、「動かしにくさ」は「(慣性)質量」のフォーマルな規定。また上記加速度に類比させた「どれだけ労働者を効率的かつ持続的に動かし酷使できるのかで計算した増加率=傾き」の「効率性」は「最小作用の原理」をイメージしている。#資本論
マルクス『 #資本論 』の根幹ロジックがニュートン古典力学パラダイムに綺麗に収まることになるね。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
Fは「剰余価値奪取=生成能力」で加速度aはどれだけ労働者を効率的かつ持続的に動かし酷使できるのかという指標で計算した増加率=傾きになる。
613.2023
「手に入れることの大変さ」を「動かしにくさ」という意味での「質量=m」と置き換え、ニュートンの運動方程式 F(力)=ma(加速度)の加速度が何かを考えると面白い。さて何かな? note.com/free_will/n/ne…
と付加するとかなりトートロジカルな響きになるが
極めて稀有な例を除いて
(意味不明であろう呟きだが)、真にまともな哲学って今までどれだけあったんだろうね?
この身体は人間以外の身体を含む。
形而上学ではなく #現象学 なら例えば「身体的潜在経験」といった形になるようだ。
ゼロ点エネルギーと重力場の特異点は、唯一絶対の〈次元=場〉において不可分であるだろう。有限の(つまりすべての)観測主体に観測可能なのは無限それ自体との差分(をさらに変換した量)のみである。あえてそうした〈記述〉の構成(通常は論理構成と言うだろうが)にしている。
枢要な〈次元=場〉であるのは間違いないのだが。
612.2023
実は私が作業中の論考でも使っていない。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
@charis1756 ちょっと変わっていたらしい。
@charis1756 母方の曽祖父佐々木綱親(貞庵:1838-1903)は、蕃書調所で仏蘭西学蘭学を、前身の大阪兵学寮で数学を教えていたようだ。嘗て著書の『洋算例題』を古書店で手に入れた。ただし彼に本当にn·oがあったのかはわからない (笑)
直接この件で意見はしないが、彼の動画がなかったらと思うと心底ぞっとする。数百本の動画で学んだが恩恵は計り知れない。ヨビノリ「大学の先生は基本的な授業は我々プロに任せて」→大学教員「100%反対」「全く同意」等いろいろ togetter.com/li/2165329 #Togetter @togetter_jpから
広い意味かつ厳密な意味での観測問題または内属性問
28歳頃の草稿的論考から誕生し生き残った〈移行-変容〉:これは単なる「概念」ではない。
「意識」を鍵概念とする限りカント『純粋理性批判』の枠組みを超えることは不可能
〈潜在性〉次元問題から〈観測問題〉を解除できるか?
@hottaqu お忙しいところ都度さっそくのご返信ありがとうございます。私の哲学的-形而上学的な方向からの関心は特にゼロ点エネルギー、ホログラフィック原理などです。
やはり鍵は永井均氏の内属性問題ではないか?
〈潜在性〉次元自体についての形而上学は、ある極限方向においては入不二基義氏が極めているのだが。
「潜在性」または「潜在的」と表記をせざるを得ない次元をあらためてどう記述するのか。「潜在性/潜在的」という表現は不可欠なのかどうか。
つまり形式的な構造
冗長性の利点がない。
極度に取り扱い注意ということ
「無内包な現実」という表現は鬼門
611.2023
もちろん『ドライブ・マイ・カー』は日本映画だが、非常に優れた韓国映画の系譜に乗るかのような雰囲気がある。
16 hours ago
今一つ掘り下げ不足だったな。例えば『バーニング』や『ドライブ・マイ・カー』の方がよほど面白かった。もちろん韓国映画の非常な傑作は数多い。多すぎるくらいに。映画『別れる決心』予告編 2023/2/17(金)公開 youtu.be/as1an3mvn4E @YouTube
なんか笑える(笑) twitter.com/omnivalence/st…
@charis1756 二度の最悪の使い走りとはもちろん日清日露戦争
@charis1756 つまり兵学寮蕃書調所と東京「帝国」大学の間には埋められない決定的な断絶があります。
@charis1756 この国が明治維新以後大英帝国のような正真正銘の帝国ではなく一貫してその正真正銘の帝国の使い走りのフェイクだったからでしょう。今もまたあの二度の最悪の使い走りの再現を強いられそれに嬉々として邁進してますね。最悪ですが。なお江戸幕府の兵学寮→蕃書調所にはN・Oがあったと思います。
ハンマド・ビン・サルマン皇太子は世界を変えてしまった。 #Yahooニュース news.yahoo.co.jp/articles/395fd…
「岩盤としての自然」と「善のイデア(的な何か)」の円環的な循環運動
堀田昌寛氏との対話 場の量子論における<無限遠点=∞>について|永澤 護
@hottaqu 確認ですが、この同一視は「選択」を超越した任意の「無限遠点=∞の全体集合」と「2次元平面の境界」の等値といったこと「ではない」ですよね。あくまでマルダセナ対応という「選択」と不可分なものとしてそのような超越化の操作ではないと思いますが違うでしょうか。@ryu17669655 @sitasimiyasui クリプキもそこで躓く。彼が結局「我々」に留まる限り。しかしその停止は彼自身の直観を裏切る。そしてその姿がウィトゲンシュタインの二重のとゆらぎとオーバーラップしますね。やはりみんな最後は丸くなる?(笑)
@ryu17669655 @sitasimiyasui それこそが核心だと思います。
これまさに青山氏の「意識」レベルの設定ですね。 twitter.com/sitasimiyasui/…
思えばウィトゲンシュタインは最晩年にいたるまで二重のゆらぎを抱えていたのだろうね。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
@Taroupho 上記=は「承認=規範化」です。もし承認が既に規範化ならそれを回避できるかという問題@Taroupho もしそうなら私は上記「現に切り離されてもいる」までは立場としてシェアできると考えていますが、①さらに「岩盤としての自然主義の承認」を循環に陥ることなく言語化または論理化できるか、また逆に②言語化または論理化しない場合にこそ循環に陥るのかが問題になると思われます。承認=規範化の回避
@Taroupho 確認ですが、谷口さんは「岩盤としての言語ゲーム一元論とその一類型としての岩盤としての汎規範的命題主義」と「岩盤としての自然主義」が一体不可分なセットなのではなく両者は切り離し可能かつむしろ現に切り離されてもいるとした上での「岩盤としての自然主義の承認」という立場でしょうか。
610.2023
「ここがロドス島だ、ここで跳べ! 他の場所に移動して跳ぶな!」という言葉は、「他の独在者(他人)」という<矛盾>それ自体としか言いようのない何か、そしていかなる特定の時と場所においても実在し得ない、この<私>の<現実性>との遭遇への促しだと言えるだろう。 twitter.com/hitoshinagai1/…
@hottaqu 場の量子論においても「任意の時空座標系に対する」という形で無限遠点=∞が個々の観測=測定主体の「選択」から超越するのではなくそれら個別に選択された座標系に相関するのみということでしょうか。ただこの超越性を考えなくても同じ含意になるかと思いますが。
@hottaqu 無限遠点=∞と「境界」との関係です。
「空間無限遠方の境界領域」は「無限遠点=∞の近傍(領域)」と(場の量子論において)言い換え可能でしょうか。この場合さらに上記「空間」を「任意の時空座標系に対する無限遠点=∞」と(場の量子論において)言い換え可能でしょうか。
周知の集合の包含記号もペアノの考案→対象 x が集合 E の元であることを、 「x ∈ E 」と書き表す twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
第2章サブタイトル付加: あるいは〈私/X〉 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
@sitasimiyasui もちろん「いま」「決まる」といった「意志」の形而上学的な探究をしているわけですが、リベット等をまぜた哲学議論はしっかり反駁しておきたいです。
6.09.2023
@sitasimiyasui 「ありがとう」って言えるんですよね(笑)
言い換え『名指しと必然性』のクリプキには、この<私>の<現実性>との不可避的な<遭遇-衝突>への促しに対する何らかの感性がある。彼の探究は「ぢつと手を見る(啄木『一握の砂』)」「私は今---と考えている」といった「現に=<現実性>」の場を完全に消去することなく遂行されている。
A fierce war between the Central Bank Digital Currency (CBDC) and existing virtual currencies (cryptocurrencies) has begun. In a sense, it is a battle that will determine the course of humanity.
中央銀行デジタル通貨(CBDC:Central Bank Digital Currency)と既存仮想通貨(暗号通貨)との熾烈な戦争が始まっている。ある意味で人類の帰趨を決する戦いだ。
ガチの世界戦争と完全統制管理が到来する前に(あるいはそれを防ぐために)やるべきことをやっておかないとね。
あまりに見え透いたベタな質問が並んでいたので驚いた。 あなたは文系脳度50%、理系脳度50%【文系と理系のハーフ脳】文系脳と理系脳の絶妙なバランス。理系だけどコミュ力も高い。 #文系脳理系脳診断 4ndan.com/app/1083/r/3
Metaphysical cores (work in progress) 2023.6|永澤 護 /dharmazeroalpha #note 先端的理論物理学者もその探究中枢において(または科学としてのその探究のデッドライン上で)〈独在住〉と〈現実性〉の問題に絡め取られていることに気づくかもしれない。 note.com/dharmazeroalph…
すぐれた役者なら高い哲学の素養があるのは普通のことだと思う。むしろない方が不思議だ。 twitter.com/consaba/status…
6.08.2023
「じっと」の本来の表記は「ぢつと」
学生時代とは学部時代
ほとんどの分析哲学者や現象学者を始めとする哲学研究者がクリプキよりもずっと愚鈍なのは、「じっと手を見る(啄木)」「私は今---と考えている」といった「現に=〈現実性〉」の感性に著しく欠けているからである。クリプキにはそれがクリアにある。
どうでもいいことかもだが、分析哲学(者)において、存在記号(存在量化子)がペアノによって導入されたことは常識なのだろうか。
現代物理数学の形而上学的読み替え ①ゼロ点振動 ②オイラーの等式 e^iπ(eのiπ乗)+ 1 = 0 ③リーマンゼータ関数とモンゴメリー・オドリズコ予想 第1段階の記述は完了 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
懐かしのグラマトロジー
意外にというかある意味でだからこそ、分析哲学者はこの事情に極めて鈍感
6.07.2023
近そうで遠い。デリダの哲学も一般理論である。
おさらい:この実在世界においては、どのような実在性センサー(人工的なセンサーを含む任意の感覚・知覚器官)によっても、この「私」からこの<私>を実在性の基準/属性によって区別して切り出すことはできない。
学生時代以来の長い時を経て、漸くデリダへの借りを返すことにもなるな。
より正確には「呼ぶという関係」 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
クリプキは、現代哲学において「と呼ばれる」の驚くべきメタレベル性に気づいた極めて稀有な哲学者である。私はその問題を全面的に展開して探究している。ただし別のルートから。クリプキの批判するラッセルの確定記述は特定の実在世界の実 #note
6.06.2023
ゲーデル 不完全性定理 クライマックスは というか最初から背理法による証明
No other entity is as interesting beyond comparison as Euler's equality, and I believe it is precisely this equality that can be read metaphysically (in fact, I have read it in a metaphysical dimension).
オイラーの等式ほど比較を絶して興味深い存在はほかにないが、私はまさにこの等式こそ形而上学的な読み替えが可能だと思っている(実際読み替えた)。
クリプキの批判するラッセルの確定記述は特定の実在世界の実在性の記述でしかあり得ない。以下略
ゲーデルの不完全性定理の安易な使用=誤用をする前に、その証明が(数学の定理の証明においてまたしてもという例だが) 矛盾を導出する #背理法 を使っていることに注目する必要がある。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
私はその問題を全面的に展開して探究している。ただし別のルートから。
#クリプキ は、現代哲学において「と呼ばれる」の驚くべきメタレベル性に気づいた極めて稀有な哲学者である。#philosophy
1998年7月夏 世田谷市民大学で教育学者の齋藤 孝氏の講師補佐をやっていた。
亡き母のエッセイ 敗戦直後の日々「母と歩んだ日々」 母のエッセイ 『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた』より |永澤 護
これは亡き母が82歳になる直前に書いたものだが、エッセイというよりメルヘンだ。「野良猫 ノラ」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』より|永澤 護 /dharmazeroalpha #エッセイ
6.05.2023
最終的に現代物理数学の形而上学的読み替え(による〈現実性〉の探究)部分の記述量がどれだけになるかが全体の記述量にとって大きなファクターになるだろう。
アリストテレス『形而上学』の検討をいったん停止して(今さらだが)本日からクリプキ『名指しと必然性』の検討を行う。丸々一冊厳密に検討したくなる哲学作品など実はあまりないのだが。もちろんアリストテレスは全体を読む。
さらにその先に〈独在住〉の探究が始まる。
現象学
現象学の基本的前提とそこから始まる問い
現象学の基本的前提
6.04.2023
現象学という20世紀以後フーコーやドゥルーズやデリダを含めた「ほとんどすべて」の現代思想・哲学の潮流においては、この指摘で何を言っているのか皆目理解できないと思う。twitter.com/hitoshinagai1/… 私にとってこのツイートの哲学的-形而上学的超重要ポイントは〈矛盾〉という形で「矛盾」が山括弧付きで表記されている(少なくてもこの文脈ではそのように表記せざるを得ない)こと。
かつての流行りの様に、「非人間性」や「特異点」を「目指すこと」ほど凡庸で間抜けなことはなかった。6.03.2023
@sitasimiyasui #時間 自体は流れてませんね。時間はある種の<隙間/裂け目>でしょう。
Photo Archives Metaphysical cores(work in progress)|永澤 護 /dharmazeroalpha #note #philosophy note.com/dharmazeroalph…
アリストテレス『形而上学』「矛盾律」の定義に寄り添って|永澤 護 /dharmazeroalpha #note note.com/dharmazeroalph…
@miyou_satou この場合「(議論力)は」と「が」で異なりますかね?
入れ子構造の無限後退があるような気がする。 twitter.com/sitasimiyasui/…
1999年の #東海村臨界事故 を覚えている人あまりいないかも。長らくショックでいたたまれなかった。あれほど終末の時を戦慄的に予感させた出来事はなかったな。The Hell
行き急ぐと死が切迫する(と思う)。
「生き急ぐ」はあまり興味深くない。
6.02.2023
最終的に紙の本での出版を目指して、原稿執筆作業を継続しているが、現時点で400字詰原稿用紙で『序論』と本論第1章の途中までで約115枚執筆済の状況。ひとまず300枚程度で一区切りをつける予定だが、当然ながら最終的には500枚程度以上に仕上げたいと思う。
永井均氏と入不二基義氏の決定的な金字塔となる仕事を、その哲学-形而上学の地平で継承し、両氏の仕事のさらなる展開にも貢献できれば僥倖だ。両氏の哲学-形而上学がどれほどの未聞の地平にとどき得るものなのか、ということを全く新たな方向で(既存の哲学パラダイムの外部で)示したい。
もちろん無内包な〈私〉によってのみ現実に生まれる〈唯一の問い〉として
「思考はできても想像できない」または「想像できないのに思考はできる」という謎めいた事態だとも言えますね。なぜ想像できないのに思考はできるのか、またその事態はそもそもどういう事態なのかという問いが、この<私>によって可能であることが、いっそうこの事態を謎めいたものにしています。
6.01.2023
アリストテレス『形而上学』における矛盾律正当化の議論、最大の仮想敵は #龍樹 であるかのようだ。実際『中論』の解釈はいまだ確立していない。龍樹がアリストテレスと同様に帰謬法または背理法を使用しているのかが焦点になる。ところで数学の大定理の証明には背理法が非常に目立つようだ。
アリストテレス『形而上学』「矛盾律」定義における「同時に」に<隙間/裂け目>すなわち<矛盾>が不可避的に組み込まれていることに人類史上初めて(笑) #哲学 形而上学プロパーの土俵で言及する。「矛盾」は永井均氏の最重要キーワードであり、かつ入不二基義氏の<現実性>と不可分である。
5.31.2023
「無内包の(任意の世界の世界内性に無関係に現に偏在的に働く)<現実性> [注1] 」の記述および注記は、入不二基義氏の『現実性の問題』へのオマージュの意味を持つ。 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』本論「序文」の一部|
〈不可能な作業〉としてのこの〈私〉の唯一かつ同一の記述について(のこの〈私〉の記述)→なお[注2]の「極めて稀有な(ほとんど唯一の)例外」とは、永井均氏の(とりわけ「内属性問題」を巡る)仕事を指している。
浅くしか考えられない人間に限って「非線形常微分方程式の非線形システム」とか「カオス複雑系」とか「(いたるところで微分不可能な)フラクタル図形」などを持ち出して適当な話をして終わりにする(苦笑)。
古代ギリシア以来の #形而上学 的臨界問題を高抽象度で考えるためにはざっくりでもいいので極限操作などの解析学の考え方を知る必要がある。でないと昔からありふれた「線形思考批判」等の中身のない俗流イメージに絡め取られることになる。歴代の自然学者 #哲学 者たちの労苦を舐めてはいけない。「同時に(非-実在時間的に)」というのがポイントだが、「非-実在時間的」は「非-実在時空的」とも言い換えられる。つまり「<私>の<>性」と分析し記述する場合の分析の場は、実在時空的な「場」ではなく、非-実在的な無内包の<場>である。
「〈私〉の〈〉性」という表現が超重要だと思われる。もちろん「私」に〈〉性という属性(それが無内包属性と考えられたとしても)が結合されるのではなく、そもそもの初めから〈私〉として与えられているにもかかわらず同時に(非-実在時間的に)〈私〉の〈〉性として分析可能だという驚異的な事態 twitter.com/hitoshinagai1/…
5.30.2023
@omnivalence 演算子=操作子(数学では作用素)の原語はみなオペレーターでセールと同じですね。セールはちょっと触れた程度で少なくとも数十年間未読ですのでわかりませんが、空海は自然学領域と形而上学領域との両者を想像を超えたレベルで往復横断しえた殆ど唯一の存在に思えます。@omnivalence もちろんシュレディンガー方程式の様な量子力学のハミルトニアン演算子の様なイメージです。あくまでイメージですが。
@omnivalence 単なる演算操作の探索ではなく「操作子(演算子)」としてフォーマット化したのが空海ということですね。
走り書きメモになるが、#アリストテレス 『形而上学』第3巻第2章特に翻訳書93頁の「存在」「一」のアポリア(難問)は、#カント 『純粋理性批判』の「神の存在論的存在批判」の源流だと思われる。ラッセルのパラドックスの源流でもあるだろう。#哲学
カフカにガチで(それ相応の水準で)勝負をかけて負けないのは安倍公房だけだろう。
実は #安倍公房 の傑作『密会』に下半身馬のラスボス「馬(副院長)」が登場する。『密会』はカフカの『城』にガチで勝負をかけた作品。勝ってはいないが負けてもいない。 twitter.com/MS05_KYUZAKU/s…
5.29.2023
ヘーゲルはカントに本気で戦いを挑んだ代表的人物と(ひょっとして)思われているかもしれないが、とてもそうは見えないな。あの何かにつけ小馬鹿にしたような口振りといい、カントによる神の存在論的証明批判の浅薄な解釈といい――
(承前)「この絶対的な差異は、或る<他者>の誕生と共に、その都度やって来る一つの試練あるいは訓練として与えられる。」デカルト『省察』の答弁には、カント『純粋理性批判』末尾の「純粋理性の訓練」が反響している。これがはるか昔に私が出した結論である。
私が25歳頃に出会った #デカルト 『省察』第2答弁におけるあまりにも素晴らしい言葉――今なおこの言葉を誰が超えられているのだろうね(笑)
デカルト による #神 の存在論的証明とは、概念化された《私》でも人格的な「私」でもなく<今-ここ>で省察を遂行し省察とともに生成する<まさに-この-私>が、ある絶対的な差異の知覚とそうした知覚を成し得る力を「或る他のもの」から受け取った=与えられたという不可疑の経験の証言である。
この絶対的な差異は、《或る他のもの》との出逢いがそこで誕生する、「私の内」でも「私の外」でもない或る時空の彼方の場所で与えられる――すなわち、触れられる。それが一体「いつ」なのか、そして「どこ」なのか、私はそのことを知ることが決して出来ないのだとしても。
元ソース 私の大学院在学時の25歳頃に書かれ、当時の担当教官であった実川敏夫氏(デカルト・メルロ=ポンティ等を主研究分野とする哲学者)に課題論文として提出された。
5.28.2023
「意義」を見極めることはそれに「関心を持つ」以前に簡単ではないことに思える。まして「(そういった「意義」に)関心を持つべきだ」とは思えない。
一種の推測的な断言によって、「意義」をかなり漠然とした(例えば社会的または道徳的なものに対するそれの基本的な構えといった)イメージで語らない限り。
基礎科学としての情報〜エントロピーと生命、超次元複雑性と #生成AI の未来と私達 Dr.苫米地 youtu.be/Sfy786x3Zv4 ループ量子重力理論でも「情報量の最小単位」が前提されるが、より抽象度の高い(最高次元の抽象度における)「超情報場の最小単位」が考えられていることが非常に興味深い。@Taroupho 「実在」の水準から一歩も出られない総ての「専門職(者)」は #生成AI によって近々淘汰される。もちろんそんな「専門職者」の総ての論文には大した価値はない。
#カント の書簡 院生時代入手したものが発掘困難状態になっていたので、そしてそのうちの一つの書簡をどうしても再見する必要があったのでネット注文していた新バージョンのものが、本日届いた。
まさにその源流の永井さんからの言葉ありがたいです。とはいえ決して大袈裟ではなく、人類史上前代未聞の、嘗てない哲学の水脈が生まれていることは、事実だと思います。微力ながら私も頑張ります。
5.26.2023
米国に亡命するに際して、合衆国憲法を細密に検討して(もちろん公理系としての)「矛盾を発見した」ゲーデルのエピソードを想起した。
昨年11月 浅草『あみ清』の貸切屋形船にて 天婦羅や刺身が美味かった。景色も最高だ。何やら難しげな顔付きだが、見ればわかるように単にカラオケのリモコンをいじっているだけだ。
最も急激に多次元的崩壊中なのが他ならぬこの国。まもなく黄昏すら終わりを迎える。そこから生まれる哲学はまさにミネルヴァのフクロウだ。
ヘーゲルの言葉「ミネルヴァのフクロウは迫り来る黄昏に飛び立つ」(die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug)は正しい。哲学は世界の崩壊が決定的になったそのステージにこそ現われ飛び立つ。そのときにこそ哲学の前代未聞のルネサンスが始まるのだ。
言い換えれば、この国の哲学者たちが人類史上前代未聞の、嘗てない革命のムーブメントを齎すだろうということだ。これは何ら大袈裟な見方ではない。もちろんその決定的な源流は、永井均氏と入不二基義氏の哲学-形而上学である。
自分で言うのも可笑しいが、私の様な奇妙な哲学-形而上学のライフコースを辿った者は、人類史上全体を見てもあまりいないだろうと思う(苦笑)とはいえツイッター界隈を見ると、この国は現在哲学の極めて偉大なルネサンスの幕開けに入ったと思う。新たな多くの哲学者が生まれている。素晴らしい!!
『<私>は1と0の狭間で不断に振動している』本論第1章 <私>と<現実性>へと向かって 暫定目次項目(適宜更新)|永澤 護 /dharmazeroalpha
今年一杯作業して何とか全体像の目鼻が付くといいのだが、全体作業の完了はベータ版完了ですらとても今年中には無理だろう。
これまでの探究全体をまとめる作業を2月10日から博士課程時代の初稿から自分でも驚くほど非常に長い年月を隔てて『序論』として改訂する作業が昨日ほぼ完了した。画像はそれと並行して作業を進めていた第1章の項目の暫定的な一部(Ⅲの途中迄完了。各々の記述は比較的短い)#哲学 #形而上学5.25.2023
感覚的事物とイデア(エイドス)との間にある「中間のもの」としての「数学的対象」という #プラトン の洞察は、この上なく鋭いと言わざるを得ない。
アリストテレス『形而上学』における著名な冗談→「美しくなった #ソクラテス 」
#science #physics ディラックのブラケット記号に言及したのはもちろんジョークではない。量子エンタングルメント=量子もつれ(重ね合わせ)を典型として、事柄自体の根底に極めて深い関係性があるはずだ。哲学または形而上学において、まだその未知の関係性は記述されていない。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
#ディラック のブラケット記号があるが、私も予てから以下の記号を定義している→💐記述記号ハイフン「-」は、無内包の〈働き Aktus〉によって結合されたハイフン前後の無内包の〈事態〉の不可分な無内包性を表現する。つまりそれ自体無内包の事態〈A〉と〈B〉の場合〈A-B〉という表記になる。#哲学
5.24.2023
アリストテレス『形而上学』第3巻第5章 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
非常に長い年月を隔てて紐解いた結果、あまりにも決定的な記述を昨日発見してしまったので、それを論考の導入として引用するとともに、いよいよかの #アリストテレス の『 #形而上学 』を読み始めることにする。
何度かここで目次項目の画像をアップした『序論』(少なくとも初稿はほぼ完了)と現在作業に入ったばかりの第1章両者の附記として、「なお、本序論を含む以後の全論述において、全角不等号「< … >」を半角山括弧「〈…〉」の代用として使用する」を付加した。この代用は既にかなり定着している。
この次元から見ると #デカルト の神と大日如来の両者は一致する。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
5.23.2023
veoh.com/watch/v1055540… 埴谷雄高『死霊』「虚体」「自同律の不快」「未出現宇宙」全体は読み切れていない(読んでいたのは1998年頃)が、また所々物足りない記述があるが、確かに彼ほどの「メタフィジカルセンス」を持った哲学研究者を含む人文系研究者は稀有な例外者を除いて皆無だろう。 twitter.com/hitoshinagai1/…
@omnivalence 永遠かつ偏在する〈現実性=力〉ですね。
@omnivalence なるほど。「連続創造説」の「創造」は「永遠」という地平における「保存」であるわけですが、その場合でも大日経の大日如来のポジションはバラダイムが異なるということですね。
デカルト『省察』を読むほどに、カント『純粋理性批判』と実はコアの部分で相互翻訳可能だと思われるね。その背後には、コギトの独在住と超越論性のアンチノミーが控えているのだが、それでもなお(またはだからこそ)---
この「連続創造説」的なものを認めるかどうかは、#哲学 的- #形而上学 的システムのかなり枢要な分岐点になるだろう。
まさに(一見して)「どうでもいいこと」は、皮肉にも「意味調べ」による言葉の横滑りから生まれる。 どうでもいいことだが|ターコの部屋 #note
@omnivalence 直接このツイートに関係しない質問になりますが、大日経の大日如来はデカルトのいう「連続創造説」的な力の行使をすると考えられるでしょうか。または全く異なるパラダイムなのでこうした問いは回答不可能でしょうか。もちろん空海の哲学的-形而上学的パラダイムから見てです。
5.22.2023
まさに道徳とかモラルとか社会常識とか我々によって呼ばれているもののあまりにも巨大な力に真実が飲み込まれてしまった。とりわけこの何年かでそのことは嫌というほど露呈した。しかも寒けを感じるがそうした悪夢的な状況が今後も一層力をますと予想される。何という「世界」だろうか twitter.com/hitoshinagai1/…
@charis1756 ご参考までに。ここで書かれたことが、今は詳しく述べられませんが、青山拓央氏の最近の論考に関わります。note.com/dharmazeroalph…
@charis1756 そうなのですが私が予てから気になっているのは、多世界解釈においては汎世界的な普遍言語のポジションに「宇宙の波動関数」と(観測主体と区別された)「超越的解釈者」が認められていることです。より正確には和田純夫氏による多世界解釈の解釈ですが。
またはこの運動そのもの→座標原点=0と無限遠点=∞との〈同時性〉
5.21.2023
この構造化の運動がなければあらゆる変換操作が不可能になる。座標原点=0と無限遠点=∞はこの構造化の運動により対応する→デカルト空間を極座標空間・リーマン空間・ヒルベルト空間・トポロジー空間等へ変換 #philosophy
リンク先を上記ツイートに訂正⇒それがどのような現象(的内包/パースペクティブ)であろうとも、「私の境界条件」になることは原理的に不可能⇒「境界なき境界」の成立条件になることは不可能
ここから #カント 『 #純粋理性批判 』をやや離れて次の仮説が設定できる⇒                          それがどのような現象(的内包/パースペクティブ)であろうとも、「私の境界条件」になることは原理的に不可能⇒「境界なき境界」の成立条件になることは不可能
総ての点は座標原点=ゼロに回帰する。問題はこの運動の構造 twitter.com/Taroupho/statu…
(だが、<私>はあたかも何事もなかったかのように気を取り直し、旧暦通称『ギムレットとダイキリのクメール・ルージュ・アンチ・ポルポト割り』をいつものようにほぼさりげなく飲み干しながら、<そこ>[=<ここ>]でこの問いかけを続けている。)#詩 #現代思想 note.com/dharmazeroalph…
⇒より普遍化すれば、それがどのような現象的内包/パースペクティブであろうとも、「私と私の外部の境界条件」になることは原理的に不可能→ここでは「意識」は前提されてはいない。 #哲学 #philosophy twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
5.20.2023
@path110 しかし両者ともに「自然数」概念を既に前提しています。
@path110 「自然数を自然数と見ない」と「自然数は存在しない」は違いますね。
このツイートだけを見た場合致命的な真逆の誤解を生むかもしれないのであらためて注記するが、ここでの「 #カント の真意」は「自分自身の身体」を含む一切の「見え」は、「「私の外部」の可能性の条件を成すことは原理的にできない」ということである。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
つまり一切の「見える」の「見え」を含む。従って、それがどのような「見え=現象的パースペクティブ」であろうとも、「それが私の外部の可能性の条件を成すと言うようなことは原理的に不可能」ということになる。#哲学 #カント twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
本文だけで400字で約125枚詳細な注を入れると160枚以上あるだろう。
この非常に大部の凄い論文だが、実質24歳で書かれたとはとても思えんな(苦笑) twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
「外的経験の何らかの対象」「条件として廃棄不可能な何か或る特定の対象」には「自分自身の身体」も含まれる。#純粋理性批判 #カント twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
519.2023
@Taroupho 引用②「外的経験の何らかの対象を指定して、それが「私の外部」云々の可能性の条件を成すと言うようなこと、その意味で条件として廃棄不可能な何か或る特定の(引用者付記:「特定の」に傍点)対象を指定するというようなことは、抑原理的に不可能である、――こう語ることがカントの真意だった」
@Taroupho 上記論文から引用①「私の前方の奥行きのなかに偶如何なる対象も見出されないという場合をも含めて、形式としてのこの空間は常に変わりなく、そこに登場してくる事物に外的経験の対象と呼ばれる資格を初めて付与する、そういう地平を形式している」#カント
#形而上学 Tweet Archives new version vol.1|永澤 護 /dharmazeroalpha #note note.com/dharmazeroalph…
@Taroupho cir.nii.ac.jp/crid/152198070… 「形式としての空間」脳腫瘍で42歳の若さで逝去したかつての私の指導教官だった久保元彦氏25歳の処女作です。彼は天才でしたね。というか鬼気迫るといった感じで。
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A… もう一人の偉大な学者が上原専禄
私の亡き父親は、トラック諸島に出征する前に、 #山内得立 氏が東京商科大学(現一橋大学)で教えていた時期に在学しており氏の講義を受講していた。父は山内氏に対する非常な敬意をもってそのことを語っていた。上記『ロゴスとレンマ』は晩年に至るまで父親が愛読していたと思う。発掘しなければ。 twitter.com/kumatarouguma/…
@Taroupho 気づいてみれば(〈私〉もですが)あまりにも明白な事実なんですけどね。あまりにも手前にありすぎて(実在世界の手前または外部なので)気づけない。しかし実在世界との接点は消えない。@Taroupho 「得る」という可能性または形式性の次元でまさに「得る」つまり可能だと思います。ただし思い切りざっくりとかつ抽象度を高めていうと《言語性》(身体感覚の形式化を含めた)と〈現実性〉が隔たりつも不可分になるという複雑な分析になると思いますが。
@Taroupho 形式としての空間ということは極端に理解困難のようですね。
@charis1756 直観形式としての時-空または時-空の形式性というカント的な枠組みにおいてもその内包性は「〈〉化」されざるを得なくなります。
@irifuji この循環的な運動性を時-空の形式性と不可分な枠組みで考えるという探究課題は非常に困難ですが最重要な課題と考えています。
518.2023
@charis1756 植村さんの場合は山括弧もハイフンも消去された後の場面ですね。
すごく端折って言うと、この動画デカルトとライプニッツに非常にシンクロしている。
下記のツイートの〈無限遠点〉に関わるダイアグラム。
実に興味深い twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
〈無限遠点〉がつねに既に絶対的な与件として与えられて(構成されて)いる。 twitter.com/charis1756/sta…
@MuhoNoelke @charis1756 「全く同じ空間に無限の可能世界と一枚の現実世界が被さっている」という記述を読むこの〈私〉の独在的な事実があるわけですが、この〈私〉はなぜそういった「同じ空間の想定ができるのか? その同じ空間とはいったい何なのか?」等と問うこと(同時に書くこと)が現にできます(現にしています)。
@charis1756 ここで簡単に議論できない多数のレイヤーがあります。実在性と現実性とこの私の記述 また方向と言語等など。
@charis1756 多世界解釈では観測主体と区別された「超越的解釈者」と汎世界的な《言語》としての宇宙の波動関数に対応します。
@charis1756 私はまだ結論は保留しています。青山拓央氏の議論に密接に関わります。@charis1756 今詳しく述べられませんが、鍵は汎世界的な《言語》(汎世界的な関数の様な何か)を認めるかどうか、そしてそれがこの〈今-ここ〉での〈私〉の記述(の生成)とどう関わるのかということだと思います。
@Taroupho この革命的なプロジェクト是非成功させましょう。もちろん二人だけの共著と限定していません。それだと流石にマーケティング的に厳しいでしょうから(笑)
#哲学 の現況(とあえて通常の用語を使うが)は量子力学と一般相対論のパラダイム革命が起こった後の段階と捉えられる。少なくとも私はそういう姿勢で探究している。そしてこの状況は単なる物理学(または物理数学)とのアナロジー的な比喩ではあり得ないと考えている。つまり学としての #形而上学@Taroupho この点が非常に興味深い私と谷口さんとの遭遇点かつ分岐点になります。遭遇と分岐は〈遭遇-分岐〉という切り離せないハイフン-〈隙間=亀裂〉付きの事態になります。
@charis1756 これを認めるかどうかはある種究極の哲学的-形而上学的選択になりますが、いずれの選択も同じ究極の事態のコインの裏表になると予感しています。
@Taroupho まあいろいろ深い議論があるでしょうが、これを認めるかどうかはある種究極の哲学的-形而上学的選択になりますね。しかしいずれの選択も同じ究極の事態または「真理(笑)」のコインの裏表になる他ないと予感しています。
@Taroupho いずれ私と谷口さんが最終的にまとめたものを、同じ活字媒体で発表できればいいのですがね。理想的には共著みたいな形で。ある程度のボリュームが必要ですが。
@charis1756 谷口さん当てにもツイートしましたが、私は山括弧〈〉付きのつまり無内包次元の「この<私>の<今-ここ>」という<次元=場>を認めています。ハイフン-付きなのがポイントです。ただし〈〉と〈私〉と《私》の動的循環構造化の運動と切り離せないまたはそれそのものとしてですが。
@Taroupho 〈〉と〈私〉と《私》の動的循環構造化の運動と切り離せないまたはそれそのものとして。@Taroupho 私は山括弧〈〉付きのつまり無内包次元の「この<私>の<今-ここ>」という<次元=場>を認めています。ハイフン-付きなのがポイントですがいずれお会いして議論したいと思います。517.2023
生成AI規制 手遅れだと思う。いろんな(考えつくすべての)意味で。
おそらく「位置」という言葉の選択が、動的循環構造(の力)の次元を排除しているのではないかという危惧だと思います。
@irifuji 「現実と実在と潜在と」読了しました。「現実性と潜在性のあいだに最後まで残る「ずれ(ギャップ)」」こそ最重要の哲学的形而上学的な探究課題ですね。ところで入不二さんは谷口さんの論考・発表の末尾の位置という言葉の選択についてコメントしていましたが、あの指摘はまさに肝だっと思います。@MuhoNoelke 道元の言葉「無の一つ一つは空を表現する(道取)目印であり、空は無を表現する力量である」(仏性)が極めて印象的です。因と縁によって個別化される一つ一つの縁起は空を表現する無であり、空はそれら一切の縁起を生み出す力として読めます。すると空の力は「慈悲」なのかもしれません。青山拓央氏にもいずれ聞いてみた方がいいかもしれない。
先の記述は「 #デカルト の」でなく「アンセルムスを源流とする」に改訂。デカルトによる神の存在論的証明は「この<私>に原初的に与えられた無限の観念」から導くものでより根底的なもの(26歳頃当時の指導教官だった実川敏夫氏に提出した小論で書いた)と考えている。
承前 〈同時性〉を巡る一連の #哲学 的-形而上学的探究課題の記述で数学的操作=作用に関わる記述の続き それに続いて #カント 『純粋理性批判』におけるデカルトの神の存在論的証明批判がそこで遂行される〈次元=場〉についての記述 「序論」はまだ完成していない。
516.2023
@Taroupho 「時間的実現の内容」に関して昨日の補足ですが、A変容言語による「概念の惹き起こし」は、青山氏のいう「現象的内包に基づく特定の言語使用の焦点化=独在化」とどのように差別化できるのでしょうか? 「意識」は括弧に入れて。
@Taroupho 上記谷口さんが述べているのが、カント『純粋理性批判』におけるデカルトによる神の存在論的証明批判で私のツイートはそこから始まる哲学的-形而上学的探究課題の示唆
@Taroupho それら両者つまり想像上の百ターレルと現実の百ターレルの両者を〈同時に〉見渡せる〈場〉がもはや通常の実在性の場ではないですよね。同型対応の変換操作が〈私〉によって行われるその〈場〉も変換操作自体も通常の実在性の場にはない。
解析学と幾何学の分岐と統合がなぜ可能なのか。または可能だったのか。なぜ無限遠点の追加による複素平面のさらなる拡張や極限操作が可能なのか。これらは未踏の #哲学 的-形而上学的探究課題であり、その探究は少なくとも通常の実在性の場では行われない。
複素数も複素平面も実在する。私が変換操作によってそれらを同時に構成=実在させているからだ。515.2023
私は「意識」は減算可能だがある固有な形で考えられた動的循環構造は減算不可能と考えている。 twitter.com/Taroupho/statu…
@Taroupho 〈〉付きの〈移行-変容〉は私のテーマでもあります。いろいろあるのでとてもツイッター上で議論不可能です。
基本はバロウズだが、多少哲学的含意をブレンドしている。 『ゼロ-アルファ――<出来事>のために』第一部断片25|永澤 護 /dharmazeroalpha #詩 note.com/dharmazeroalph…
@Taroupho 「境界なき境界」としての「意識」(とその固有な循環構造という場が減算されている点でしょうか。
これにはやや哲学的な含意が見られる。しかし、そうであっても、 #詩 を書くときには、ほぼすべての場合、あらかじめ何かの含意を予想してはいない。ただ書くだけだ。ただもう書かなくなって久しいし当分書くこともないだろう。Pro-logos.1|永澤 護 /dharmazeroalpha note.com/dharmazeroalph…
これはただ書いた(物語った)ものである。初めから最後までとくに何らかの哲学的な含意はない。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
@Taroupho ちょっと質問ですが、谷口さんのA変容という「内 容成分(内容性)」は青山さんのいう現象的パースペクティブ(の内容性)と(どのように)差別化できるのでしょうか?
@usovich 確かに本質的な違いはない。そこがポイントだろう。
@MIDAP 一昨日に届きましたので近い内に読みたいと思います。楽しみです。ところで入不二さんが谷口さんの論考または発表の末尾の「位置」という言葉の選択についてコメントしていたのを先ほど思い出しました。あの指摘はまさに肝ですね。
亡き母の最晩年と最晩年に近い時期に母の書いたエッセイを巡る作品 note.com/dharmazeroalph…
@taketo1024 この操作=作用は連続平面としての複素空間自体を構成する連続な曲線としての<線-を引くこと>という<働き Aktus>と考えていますがではその移行=操作は〈どこ〉で行われているのか? と問うと明らかにいかなる「実在性」の場でもないと「思われる」わけでそこに哲学的形而上学的探究課題を見ます。
@taketo1024 複素平面の構成自体が回転対称性自体を「同時に」生成するある固有な働き=操作=作用(リーマン空間上の曲線運動=リーマン空間自体の構成の様な)と「同期している」こと自体が不思議です。この同期性または同時性の作用は基底的な図式化機能と言えると考えていますが。@charis1756 note.com/dharmazeroalph… ご参考までに。私の詩作品関連です。ルーツはかなり昔に遡ります。
514.2023
@charis1756 もちろん空海もでした。
@charis1756 仏陀と道元が私にとっての最高の哲学者/詩人の典型です。パルメニデスもヘラクレイトスも両義的二重存在です。プラトンは言うまでもないですが。
@charis1756 了解です。私は①両者の間にいかなるヒエラルキーも設定していない。②差異が存在する。③したがって「本当は・本来的には」とは言えない。です。
@charis1756 実際かなり昔から、多分「少年時代から」両様の書き方をしています。
@charis1756 差異を孕んだ存在と
@charis1756 私は私をそう自認しているのです。(笑)
@charis1756 しかし差異があることも事実です。
@charis1756 なるほどそうも捉えられますね。私自身は柔軟で哲学者であるかつ物語作家でもあることは十分可能だと思います。
永井均氏最新の探究テーマの「内属性問題」を私自身も継続して探究し書いているのだが、書かれたり述べられたものでこの問題に取り組んでいる事例はおろかそれが認知されている事例も「極めて稀有な例外を除いて皆無」に見える。
@charis1756 「時間を継起として認識し、それを完成、起源、あるいは回帰として自らに約束することを可能にするのは――この深い空間性なのである」古いガリマール版『言葉と物』351頁だが(私は学生時代にこの版しか読んでいない)翻訳文でも比較的容易に見つかるはず。amazon.co.jp/-/en/Michel-Fo…
@charis1756 フーコーが物語作家だったというのは、「深い」という修飾語で済ませていること、そして「空間性」という言葉をまとめ的な一文で「隔たり」の言い換えとして使ってしまっていることである。現代思想的な悪癖でもある。
@charis1756 隔たり=écart
@charis1756 または「この深い空間性」と書いていた。私自身はこの言い換えは不正確で誤解を招くと思うが。こういったところも #フーコー が物語作家だった点だね。
@charis1756 昨日フーコーに関して、「極めて稀な例外⇒『言葉と物』「超越論的=経験的二重体 doublet empirico-transcendantal」としての《人間》&「原初的な折り目(pli premier)」に関するごく一部の記述」と書いたが、彼はこの「隔たり」を語っていたと思われる。実際彼は「隔たり=エカール」と書いていた。
@charis1756 <類似>は既に隔たりを前提する事態です。
@miyataketetsuo 今のここでは書きませんがみや竹さんの山括弧塾でのある質問スレッドはそれ自体としても私が自身の探究にとっても超弩級に重要です。
この実は無限に動的な入れ子構造の問題(なぜ想像できないのに思考はできるのか、またその事態はそもそもどういう事態なのかという問いが可能なものとして生まれること)を真に探究している(しえた)哲学者は極めて稀有な例外を別にして人類史全体を見渡しても殆ど皆無だ。もちろんAIにも無理だ。
@Taroupho 眼が入力システムで認識が計算システムなら人間やAIを含むあらゆる「有限的=感性システムをもった」知性的存在者に妥当しますね。
「思考はできても想像できない」または「想像できないのに思考はできる」というのが決定的に重要なポイントだと思われる。 twitter.com/hitoshinagai1/…
@charis1756 この極めて重要な指摘は、フェミニズム問題(と雑駁な言い方ですが)の一つのコアですよね。多分この問いの方向には猛反発があると思われますが「海外のフェミニズム」についてもその宗教的なコアを見ていく必要があります。
513.2023
#フーコー 上記極めて稀な例外⇒『言葉と物』「超越論的=経験的二重体 doublet empirico-transcendantal」「経験的=超越論的二重化(redoublement empirico-transcendantal)」としての《人間》&「原初的な折り目(pli premier)」に関するごく一部の記述 #現代思想
「何一つ隠れてはいない #道元 の言葉」いろいろコメントがあるだろうが、とりあえずニーチェはこれで瞬殺 そしてまたゾンビとして回帰する。
専門家たちには毀誉褒貶あれどヨビノリ氏も多大な感銘を受けたその革新性はやはり超一流の科学者だったといえるだろう。挑発的にいえばドゥルーズなどとは格が違う。
ポストモダンでほぼ唯一真にイノベーティブだったんだけどね twitter.com/omnivalence/st…
@ryu17669655 あくまで標準的な物理理解の枠内ですが、計測または観測は観測装置(観測主体=人間でもいい)と観測対象の「相互作用」で、広くは相互作用のタイプで基本的な4つの力(強い力・弱い力・電磁気力・重力)にわけてるんですよね。問題は最後の「重力」が何なのか皆目わからないことです。
このツイートの直後に面白い自己言及文が浮かんだ→「それはニーチェのルサンチマンです」→「この文自体が世界の背後を説いている」→以下続く
ニーチェは「世界の背後を説く者」を「批判」したわけだが、見事なブーメラン効果で自分自身がその最大の標的になってしまっていることに気づいていないという鈍感さ。 twitter.com/miyou_satou/st…
「肯定的に」がポイント
第1章導入は谷口一平氏のA変容とA変容言語を巡るものになるだろう。この探究方向で議論できるのは、現段階では谷口氏を当然ながら除けば当然ながら私しかいない(→トートロジー)。というのも谷口氏の探究方向を最深部の基底レベルで肯定的にシェアできなければならないからだ。対話は夏頃かな。
@Taroupho 中島義道氏は、院生時代の私の日本カント協会での唯一の研究発表に、唯一ハイレベルの質問をしてくれた人でした。しかも研究発表が終わって帰る途上、明治大学キャンパスの校庭を横切っていく私を呼び止めて声をかけてくれました。素晴らしい記憶として脳裡に刻まれましたよ!
512.2023
ただしここでのベータ版は狭義のオープンベータ版を意味していない。
⑤@halching1氏による永井均氏への質問ツイ―ト(2023年1月14日)とそれに対する筆者によるツイート である。 #入不二基義 氏の引用は今後書き継ぐ本論において引用される。谷口一平氏の『ゾンビに語りうることと、A変容』からも引用されるだろう。本論全体の作業は年末までのベータ版の完成を予定。
引用転載箇所①当然のことながら #カント 『 #純粋理性批判 』② #永井均 『<私>の哲学を哲学する』所収「序論 問題の基本構造の解説」26頁-30頁③同『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか: 哲学探究3』233-p234④2023年5月5日同5月6日付永井均氏によるツイートスレッド(以下続く)
#ディラック はディラック方程式を発見するまでどれだけの省察と計算の時間をかけたと言っていたかな?
例えばデカルトやライプニッツが、日々の生活においてどのように哲学書を読んでいたのか(またはそもそも読んでいたのか)想像してみてはどうだろうか。「7日間」かどうかは別として、デカルトは、少なくとも『省察』の時間において、哲学書を読んでいたとは到底思えない。 twitter.com/hitoshinagai1/…
@omnivalence この作品にコメントできる哲学研究者はあまりいないかもしれませんね。そもそも知らないものは敬遠するかも。「哲学」は「仏教」とか「科学」とかと関わらない方が無難とかの理由で(笑)。
先ほどこの記述に引き続いて〈時間〉について記述した。
「ごく一部の(作品全体ではなく)記述を除いて」というのがポイントだ。つまりフーコーの場合、全体として極めて大きな物語でなかったものはただの一冊もなかったのだが、ごく稀に例外的な記述部分があるということである。
いい意味でも悪い意味でもないが(素晴らしいものもそうでないものもあるが) #現代思想 に限らずほぼすべての思想書は物語作品である。ごく一部の(作品全体ではなく)記述を除いて極めて典型的な例が #フーコー
物語といえば、柄谷行人のほぼ全著作は「共同体」の狭間を漂う「霊的な力」を巡る物語だった。だから彼のほぼ全著作はそのように数行で要約できる。
ナマギーリ女神から宿ったと彼が言っていた #ラマヌジャン の奇跡の数式の数々も、そんな物語のタイトルだったのだろう。
完全にこの世の外にあって永遠不滅の何か。<そこ>からしか時空を超えた #物語 は物語として生まれ得ない。
511.2023
この〈同時性〉という事態を現段階で最も厳密に言い換えると、「あらかじめ不可避的に言語によって仮想されてしまっている事態の言語によるその同じ事態の<今-ここ>での、しかし<同時に>、<意味>としては事後的な記述であるという動的循環構造における<同時に>という事態」となる。
補足 つまりこの<移行=操作>が連続平面としての複素空間自体を構成する連続な曲線としての<線-を引くこと>という<働き Aktus>である。
やれやれ(村上春樹)南相馬に続いて、銚子もか。いいところなんだが。この調子だと日本中にいろいろできそうだな。既に他にも作られているだろうし、さらに様々な計画を突きつけられていそうだ。まさに嘗て悪夢を見たC級植民地の最終処分場だ。 twitter.com/touyoui/status…
#哲学 /形而上学の探究はここから始まる。
前提されているのは移行=操作の無限反復つまり恒常的な連続性が〈可能〉であるということであり、その極限値がフラクタル図形である。ではその移行=操作は〈どこ〉で行われているのか? 明らかにいかなる実在性の場でもない。
実数的連続性と述べたが、マンデルブロ集合やジュリア集合等のフラクタル図形に関しても、複素平面における無限反復系列の移行プロセスの連続性とその極限を前提していることには変わらない。その平面の場に留まる限り、特段の不思議さや解き難いアポリアは生じない。
yokoyama33 そうですね。むしろすべての物語は既に魂(に当たる次元)を前提にしていますね。それを前提にして、そこからしか物語れない(物語として生まれない)。これは絶対にそうでしかあり得ないです。@Fumitaka1984 より正確には「(それが)」が最後の問いかけになるだろう。
この「〈現実性〉と《言語性》との〈同時性〉」という問題は、「直観形式と純粋悟性概念とのアンチノミー」の問題とも言える。
言うまでもないと思うが、清水高志氏の『空海論/仏教論』は該当しない。もちろん稀有な例外は仏教関連にとどまらない。何事にも極めて稀有な例外がある。著名なものを含めて殆どがゴミというだけで、それだけ稀有なものが光を放ち力を持つことになる。#哲学 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
510.2023
youtube.com/watch?v=Xb4C4j… もうずいぶん昔に過ぎ去った、20代の後半からある時期までの時の流れにおいて、#スティーヴ・ライヒ の音楽は私のすべてであった。彼の音楽なしには、私は到底生きることはできなかっただろう。
つまり線形であろうが非線形であろうが、既に実数的連続性つまり連続的な移行=操作プロセスと理念的-解析学的な極限値を前提している。
当たり前だが、すべての図式化機能の産物、例えば一頃流行ったフラクタル図形と呼ばれるものをも含む。つまり小数で表される次元をもち、面積が有限で無限の長さの曲線をもつ図形、さらには面積ゼロの図形など。旧来の用語では一切の<思考>の産物をカバーする。#science #哲学ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E…「非ホロノミック系とは、連続的に変化して元の値になった時に系全体としては元に戻っていないような微分拘束を受けるパラメータによって記述されるシステムである。 より正確には、非ホロノミック系とは、支配パラメータの閉軌道によって、別の状態に移る系である。」
承前「その中でも、状態方程式が無限回微分可能であるものについて集中的に研究され、線形システム論の概念の拡張を初め、微分幾何学の概念を応用して多くの成果が出始めている。その流れは大きく分けて線形近似の有効領域を広げるもの 本質的に線形近似では制御できないものの2つがある。」
もちろん非線形システムを含む。ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E… 「非線形の常微分方程式で表された系を対象とした制御理論であり、その対象は実に多岐に渡る。」
補足:<線を引くこと>という場合の「線」は非ユークリッド空間(リーマン空間、一般にリーマン多様体)における「測地線」を含む。測地線は、微分幾何学の枠組みにおける曲面(リーマン多様体)上の曲線であり、その局面上の十分近い2つの点が最短線で結ばれた曲線として一般化される。
5.09.2023
「意識」「心」「言語」「記憶」「自己」「存在」「構造」etc.から出発する総ての「哲学」は失敗を運命付けられている。つまり成功している「哲学」は殆どない。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
葛飾北斎の娘 葛飾応為の『吉原格子先図』度肝を抜く作品 ukiyoe-ota-muse.jp/collection/lis…
@touyoui もちろん仏教徒は既にある古来の伝統にしたがったわけですが。
@touyoui 原始仏教徒が一日二食またはそれ以下だったのは明確なルールになっていたようなので後々までそのルールは受け継がれたみたいですね。
以下のスレッド総てをリツイート→根源悪と善意志が殆ど分離不可能になる根源的な地点へと向かう探究 twitter.com/sitasimiyasui/…
既に何度も指摘したが、真の究極問題は、〈現実性〉と《言語性》との〈同時性〉それ自体
5.07.2023
先ほど「〈X 〉――〈把握の仕組み〉の非存在へ」の記述が80%程完了した。
5.06.2023
@charis1756 いや植村ワールドはディオニュソス的というよりディオニュソス的スバイスが振りかけられたアポロンの世界ですかね。その二重性というか両義性=曖昧さが人によっては攻撃ポイントになる(なった)のだと思います。
@charis1756 多分そこまであの作品から洞察するのは難しいでしょうが。
@charis1756 つまり東西冷戦(を含むグローバルな地政学)自体がホログラム的なシミュレーションの産物だという示唆です。
@charis1756 植村さんはディオニュソス的身振りにおいてまさにエミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』的ですが、クストリッツァにはシミュレーション仮説的な極めて苦いアイロニーが必ずありますね。
@charis1756 しかし有限的な直観形式を備えた人間と #人工汎用知能 (所謂スーパーインテリジェンスも有限的理性)を含む知的存在者一般の考察には #カント が必要になります。
@charis1756 話すとかなり長くなりますのでまたいつの日かお会いして
@charis1756 私にとってはニーチェは13歳から極めて深く没頭した座右の書ですが、12歳に哲学への門を開いてくれたショーペンハウアーの開いた革命的なパラダイムを超えてはいないと考えています。ニーチェはクストリッツァが素晴らしいのと同様素晴らしい人間学です。@charis1756 単なる比喩として捉えていただいてかまいませんが(私自身の形而上学的観点からは単なる比喩ではありませんが)、量子論と一般相対論が不可避の疵または傷への介入である量子重力理論として統合(重力の量子化)される必要があるのと同様だと思います。
@charis1756 疵または傷
@charis1756 特に『世界の独在論的存在構造』第6章「 #デカルト の二重の勝利」がまさにその存在論的証明に関わる議論ですね。植村さんの言われる「疵」は不可避または除去不可能なものですが、既述の様に、なおさらに高次元の〈現実性〉におけるその疵への統合的介入が可能だと思われます。
5.05.2023
@charis1756 思想家ならともかく哲学者としては筆が滑りすぎですが、必ずしも植村さんはこの方向への先走りとは言えないでしょう。
@charis1756 古東氏の記述「〈今ここ〉に在ることそれだけで、生の極上のご馳走と充溢が与えられてしまえば、商品が思うように売れなくなる。〈よりよき明日〉にむけて競売にだされた身分や地位や単位取得の奴隷市場が無効になる。奴隷市場をとりしきる掟や規範も不要になる。」また「国家の存在理由」もなくなる。
@charis1756 彼は資本主義(商品経済)批判にダイレクトに繋げているので。
@charis1756 しかし明らかにその記述を受けた古東氏の記述が何とも通俗的な「思想家」の記述でしかないところにそういった発想の危うさを感じます。
@charis1756 「私たちの現存在を肯定し、祝福し、完成する」ような「有難み」は、古東哲明氏が『<ある>ことの不思議』「あとがき」でいう「<今ここ>に在ることそれだけで、生の極上のご馳走と充溢があたえられてしまえば」というときの「ご馳走と充溢」と似たような発想だと思えます。
@charis1756 上記「そう」は「そういった」ですね。つまり「それほど有り難みがない」ではなく「そういった有り難みはない(のでは)」と。その有り難みを感じることは先ほどの「励まされること」とは違うでしょうね。
@charis1756 であるなら植村さんの一連の美的経験を巡るツイートで記述されたものはいったい何なのかということです。
@charis1756 (想像力の)「自由な戯れ」自体はカント的には「無根拠」ですので。
@charis1756 まさにそれこそが植村さんの美学=美の哲学的探究の焦点になりますね。美と崇高の経験と言語との関係性
@charis1756 もちろん本人の証言という事実があるのみとも言えますね。理解と誤解は事後的な言語解釈ですので。
@charis1756 だからこそ偶然的=因果的に無根拠な結果または効果として現実に「励まされる」人が(かなり多く)いるという事実があるのだと思います。私はそういった事実は直観的によくわかります。@charis1756 ですから普通の意味で空虚で無意味に感じるのも全く自然で健全なことだと思います。@charis1756 修と証が一体不可分だと言われることと同じだと思います。だからこそ道は無窮(窮め尽くし難く無限)
@charis1756 つまりそれを前提していたと。私にとっては探究の方向または探究を力付ける言わばベクトルです。植村さんも実は前提ではなくそうだと思います。
@charis1756 すると先の植村さんのツイートでは、植村さん的方向では(何らかの意味で)「出合える」と考えていたわけですね。
@charis1756 つまり「実存」の次元はあくまでも無内包(実在性=事象内容性を持たない)であり、「実在性の述語」ではないということです。
@charis1756 無内包性と潜在的次元としての無限性が<現実性>の次元として不可分でなければ、植村さんの言う「潜在的にはあらゆる内容を持ちうる最強の現実性=無限性」はカントが神の存在論的証明批判で標的とした「最実在的な=全ての実在性を完備した個体=神というイデアル」になってしまいます。
@charis1756 植村さん自身の先のツイートがその何らかの通路に関係しているかもしれません。無内包性と植村さんの言う潜在的次元としての無限性は不可分なのではないかということでもあります。その場合〈私〉の無内包な唯一性・独在性は消去できないのではないかと考えられます。
@charis1756 永井 均氏のツイートを含めてご参考までに。<私>と<現実性>は、ちょうど量子重力理論が量子次元と重力次元の高次元での(形而上学的な)統合を目指していることにおそらく厳密に対応して、ある全く新たな次元で<統合>されると考えられます。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
5.04.2023
@charis1756 ただ私は極小極大無限(性)といった概念を可能な限り(数学的な整合性を損なわずしかもその整合性を哲学的メタレベル的にも探究しながら)厳密に使いたいと思っています。@charis1756 その恩寵が認められると思うのなら「批判」の動機も理由もなくなりますね。しかしむしろ問題は当初の植村さん自身の批判の動機がどこにあった(または今ある)のかということで、私はそれに関心があります。ニーチェはエンタメ的通俗性が鼻につきますので彼は無視した上で。
4年ほど前古東氏の『マインドフルネスの背後にあるもの 』を「古東氏がマインドフルネスを終極地点とし、ワンネス系の発想を共有している」とかなりシビアに批判しましたが、「真空妙有」としてのマインドフルネスを「終極地点」とする点にそのような大雑把な「賛美」になる根本要因があると思います。
5.03.2023
最後の一文は、より精密には以下になる。「だがそういった<言語>は、いかなる「意味」においても可能ではない。その<言語>は実は(<現実に>は)、まさに無内包の<現実>(<現実性>)の次元そのものであるからだ。」
ゼノンのパラドックスとセットにした問題意識だと連続性と離散性のパラドックスになり、数学基礎論最難関問題の連続体仮説や力・エネルギーと時空・確率変数の間の不確定性関係を巡る観測問題にも深く関わる。これらは単なる物理数学問題ではなく、根源的な〈私〉と〈現実性〉の問題なのだ。
@tomoya029957293 カントの『純粋理性批判』は『エヴァ』や『シン』シリーズの世界観というか庵野秀明氏の哲学にも関係しちゃうかもしれませんね。知らず知らずかある程度自覚的かはわかりませんが。アインシュタインやハイゼンベルクなどは自覚的に読んでました。
5.02.2023
ここ二三日で延べ約6時間ほど「Ⅴ〈X〉――〈把握の仕組み〉の非存在へ」の記述を改訂した。#カント #純粋理性批判
「 #現代思想 」や「~論」「~主義」といったものが何とも言えない、独特の臭い(生理的な刺激物・体臭のようなもの)を放っている理由は、この点にある。しばしば誰かの熱い顔が浮かんでくるのも堪らない香りがある。
それにしても、ウィトゲンシュタインはなぜ『哲学探究』において『青色本』から(その核心となる問題で)後退してしまったのだろうか。まさにその後退によって人口に膾炙したわけだが。
5.01.2023
指数法則で「aの0乗が1」というのは数学的にのみならず哲学的にも実に味わい深いものがある。0乗という操作は任意の「現実」の無内包化つまり〈現実〉化の働きに相当する。
無内包的に、無からの創造として語りだされた唯一の〈言語〉によってしか、この〈私〉を語りだすことはできない。
デカルトが端緒の地平において『省察』を書いたとき、その言語はその唯一の〈言語〉だったのかもしれない。だがそういった〈言語〉はいかなる意味においても可能ではない。
デカルトが端緒に掴んだ〈現実性〉を取り逃がし、《中心性》と取り違えたとすれば、その理由は、彼が創始したデカルト座標とそこから開始された(『哲学原理』で述べられた様な)壮大なプロジェクトで頭が一杯になっていったからだろう。実際、人類の歴史は全く彼の予測通りに進んだ。
だからこそ柄谷行人は「現代思想」を流行らせる(人口に膾炙させる)ことができたのだろう。浅田彰も東浩紀もその他大勢も「その余地がまったくない」点はまったく同様。 twitter.com/hitoshinagai1/…
それにしても、 #ウィトゲンシュタイン はなぜ『哲学探究』において『青色本』から(その核心となる問題で)後退してしまったのだろうか。まさにその後退によって人口に膾炙したわけだが。
指数法則で「aの0乗が1」というのは #数学 的にのみならず哲学的にも実に味わい深いものがある。0乗という操作は任意の「現実」の無内包化つまり〈現実〉化の働きに相当する。#哲学
以上のスレッドで記述された事態の哲学的な含意について、根源的には #デカルト や #カント すら考えていなかっただろう。
4.30.2023
想定された事態はそもそもの最初からこの<私>による言語的な想定であり、この<私>によるその事態の言語的な記述、すなわち唯一の<まさにこの-私の-記述>である。
承前②「もちろん、上記「あらかじめ言語によって仮想された事態」と「言語による(その事態の)事後的な記述」の両者は、この<私>の記述として同一のものになる。つまり、この<私>の唯一かつ同一の記述として生成する。」#哲学
そろそろ以下の記述の哲学的な含意の吟味検討作業が必要になる。①「以下の場面を想定する。その想定をするのは、<まさにこの-私>すなわち<私>である。ただし、以下の想定は、あらかじめ言語によって仮想された事態の言語による(その事態の)事後的な記述であることに注意しなければならない。」 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
4.29.2023
読みにくかったので簡略に→キーワードは「計算的枚挙可能性」→「計算的決定可能性」と区別される。枚挙の概念を確立したのは #デカルト 『精神指導の規則』参考 ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0…
4.28.2023
キーワードは「計算的決定(不)可能性」と区別された「(計算的)枚挙(不)可能性」 これはまさに #デカルト 『精神指導の規則』だな。#mathematics twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
@sitasimiyasui ラカンはそういった主体性の投げ捨てとして、女性(性)という不可能なものを「理論的に証明」したと自認していたようなことを書いていましたが、そんなラカンを起源としているフェミニズム理論家がほとんど総てという実に皮肉な事実を思い出します。
@omnivalence その時たしか山口昌男氏にもあってました。記憶が薄かった(苦笑)
@omnivalence 今はなき井上ひさし氏に一度会ったことがありますが、彼も山口昌男と連携していましたね。『吉里吉里人』の理論的バックボーンだったんでしょうね。
この「唯一の現実的な内属(独在)」と「その様相的な変様」という二重性、入れ子状の反復性=累進構造を持った究極問題があるということ自体、ましてやその極度の困難さ(量子論と相対論を統合する量子重力理論の困難さにアナロジカル)は殆ど知られていないだろうと思われる。 twitter.com/hitoshinagai1/…
この「医師による診断儀式」はまさに クリプキ『名指しと必然性』の(性=ジェンダーの)「端緒の命名儀式/洗礼」を想起させる。これこそがイエス的改革派ユダヤ教徒 #ジュディス・バトラー 『』の批判の標的だったのだが。また一巡して旧約的な出発点に戻ったようだ。#現代思想 twitter.com/uncorrelated/s…
@uncorrelated @ganrim_ 「性的違和」の「性的」という記号がデリダの言う超越論的シニフィアン(意味するもの)になっている。
@uncorrelated @ganrim_ 身体的な対応関係が全く無い性自認とはそもそも何なのかという問い
@uncorrelated @ganrim_ そのような「自認」とはそもそも何なんでしょうね?という問いが雁林氏の問いだと思います。このところ数十年続くDSMの流れですが。
4.26.2023
つまり《善意志》の正体は、この「自己訓練」への不断の意志なのだ。しかしこのカントの言う無根拠な《意志》とはいったい何なのだ? この問いには答えはない。だが、それを探究し得たのが #ニーチェ ではなく #ショーペンハウアー だったのではないか?
『 #純粋理性批判 』「超越論的方法論」第一章は「純粋理性の訓練」であり、 カント自身によって、「規則に違反しようとする理性の傾向性の根絶」という意味での「強制」を、「訓練と名付ける」と明確に書かれている。つまり「純粋理性批判」とは、純粋理性の終わりなき自己訓練の過程である。
感性的直観の制限を無視して自律的に暴走する純粋理性の病理/傾向性(理性の「自然的素質」)があるからこそ、定言命法と不可分な《善意志》《自由》《 #道徳 》が可能になる。これこそが #カント にとって極度に解消困難なアポリアである。終わりなき苦行=自己強制=矯正としての「純粋理性の訓練」
普遍的法則に対するカントへの偏執に関する覚え書き|#note このツイートに先立つ永井均氏によるツイートとそれに続くツイートを参照。 note.com/dharmazeroalph…
蛇足だが上記カントが「ショートカットさせて」と「してしまった」は対応してネガティブな含意を持つ。これはこれとして最終問題だが、ここでの焦点はむしろ「意識が「作用」している」の方である。この作用次元を語る言語とはいったい---ということ。
まさに #カント が潜在的なアポリアを回避して可能的命題(のみ)の次元と〈現実性〉の次元をショートカットさせて《超越論的自由》を創出「可能」だとしてしまったわけである。依然として意識が最も広汎な媒介次元として「作用」している。#philosophy twitter.com/Philoglasses2/…
まさに #カント が目指していたベクトルだが、そこにこそ深い(彼が回避した)アポリアが潜在していたと思われる。 twitter.com/Philoglasses2/…
まさに「諸可能性として命題たちが付け加わり」の機構(の形式性)こそが 哲学的(形而上学的にも)探究されなければならない。 twitter.com/Philoglasses2/…
横山信幸氏による最近の論考と強く相関する。#哲学 twitter.com/Philoglasses2/…
@Philoglasses2 ナーガールジュナ=龍樹の(そこから始まる仏教=哲学の)議論を強く想起させます
「普遍的法則」に対するカントの偏執の源泉の一つとして、自然科学研究分野の人や広く理系の人にも。当たり前だが、カントは当時最先端の物理数学に疎かったのではなく、逆にそういったリアルタイム情報を注視していた。航空工学=流体力学から転じたウィトゲンシュタインと同様だ。#science #physics
4.25.2023
@omnivalence 仏陀の言葉も少なくとも数百年は口伝でしたね。仏典結集までは。口伝も仏典化もいずれも奇跡です。
@omnivalence 了解です。山内得立は私の亡き父が学んだこともあり『ロゴスとレンマ』が家にありましたが大変なパイオニアですね。
#カント の同時代人がレオンハルト・オイラーやヨハン・ベルヌーイといった全く桁外れの数学者・物理学者だったという事実(ベルヌーイはカントの超越論哲学を批判的に論評)がカントに与えた影響力は、我々の想像を超えたものだったのではないか→普遍的法則に対するカントの偏執に関する覚え書き twitter.com/hitoshinagai1/…4.22.2023
比喩でもなんでもなく〈私〉は文字通りに最後の堡塁だと思う。人工汎用知能も、それどころか #スーパーインテリジェンス ですらその地平がデッドラインになるだろう。そこにまだ人類が残されているかどうかはわからないが--- #philosophy twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
@sitasimiyasui 内面化が完璧過ぎるのか形=型的にも整い過ぎて感じるんだな
量子ゆらぎの「自発的な」(はずの)対称性の破れがなぜかゼータ関数の規則性と同期している可能性がサルナックとルドニックにより数学的にも解明されるという途轍もない奇跡---世界の根源は永遠の謎だ。 #physics #science
@sitasimiyasui でもこれ語感として出来すぎじゃないか? 交通安全週間に署のジジイがゴーストライトしたかのような。と言えるかもですがガチ内面化してるんだね。
@sitasimiyasui 来世に望みを託すなんていう生易しいものではなく、その祈りなしにはまさに生地獄だったと思います。無論私たちもまったく同じ悲惨さですが。
@sitasimiyasui アーメン南無阿弥陀仏極楽浄土などと祈っていた、または念仏していた信徒たちは、それら彼岸=天国や極楽浄土が「永遠にやって来ない」ことがわかっていたからこそ祈りや念仏を死ぬまで続ける=信仰を持ち続けることができたのでしょうね。生の内部に構成された祈りの不断の持続だけが実存を支えていた。
@hitoshinagai1 最近の人工知能の動向などを見ても、〈私〉の独在性の探究だけが人類最後の堡塁になるでしょうね。私も微力ながら探究を続けていきたいと思います。
twitter.com/XlGjfmYpCchopJ… この「新たな概念の創造」の例として最初に浮かんだのだが。ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92… これを回答したのは直ちに明らか。
アバウトすぎて的外れというよりも、黒川氏・小山氏の「絶対数学」の回答としては間違いともいえる。ヒルベルトプログラム的な回答内容なので広い意味では許容範囲ともいえる。amazon.co.jp/%E7%B5%B6%E5%A…
単独の創造的概念というにとどまらず、新たな概念パラダイムとしての「絶対数学」について #ChatGPT に質問したが、答えはアバウトすぎてだめだった。
先のツイート訂正または補足 レオンハルト・オイラーとベルンハルト・リーマンだけが別格 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
youtube.com/watch?v=OQp0mK… #レオンハルト・オイラー とフォン・ノイマンの二人だけは人間ではなかった。ときにノイマンを天才というのは素人と言われるらしいが、それは全く別次元の話。とはいえやはりオイラーだけが真に別次元の存在だと思っている。「あれはどう見てもおかしい」#ヨビノリたくみ
4.21.2023
この「統計的」と述べたモントゴメリー-オドリズコ予想がさらに基礎的なレベルで数学的理論的に裏付けられた。 twitter.com/emptinessZero0…
「概念の創造」が #哲学 の固有性だというドゥルーズの持論は明らかな間違いだ。稀有な例外を除いて、概念の創造とは程遠い特にある時期からの極めて貧相な「哲学」に比して、例えば現代数学は、ますます新たな「概念の創造」によって推進されるようになっている。
#ChatGPT 投入の少なくとも一つの本質は、我々人間の根源的な言語-概念次元での、グローバリズムによる管理統制だろう。その覇権を巡る世界戦争が始まっている。もちろんイーロン・マスクはそこに注目している。
@path110 素数からゼータへ、そしてカオスへ amzn.asia/d/0obWs44 特にこの最終章「ランダム行列理論」です。ここで著者小山信也氏が解説している(私が何年か前に知って驚嘆した)「モンゴメリ-オドリツコ予想」とそのルドニックとサルナックによる「数学的・理論的裏付け」(著者の言葉)です。
That aporia (a problem with insoluble difficulties) is latent in the very fact that "we" speak of something, or, to put it another way, in the relationship between "this very - my - experience" and a certain unknown realm called " #language ". #philosophy
In other words, the "aporia of Quantity of intensity" latent in what "we" say about "this very - my - experience" is the starting target here. That aporia (a problem with insoluble difficulties) is latent in the very fact that "we" speak of something, or, to put it another way,
In this essay, I would like to consider the experience that takes the form of "what is called X by us" by setting up the question of what can be said about "this very - my - experience. #philosophy #Kant
The ultimate goal of this essay is to examine Kant's experience in the form of "X thing" in the field of Kant's thought, with the #CritiqueofPureReason at its core. Here, "X thing" is a concise expression of "that which is called X by us. #philosophy
The above table of contents is an introduction to the essay, "<I> am oscillating constantly between One and Zero": the latest revised edition of an essay written on #Kant 's #CritiqueofPureReason , based on the Critique of Pure Reason's theory of Schemata and Principles.
"The Trinity of "We-Man," "Language," and "Memory" is under the demand of the "constant continuity" of the "drawing of the line." This is to interpret the description of "self-affection. Herein lies the ultimate problem of #philosophy. #CritiqueofPureReason #Kant
4.20.2023
@miyou_satou @sitasimiyasui @DORIANE_DOJIN ニーチェ以上に人類の残念な歴史を総括し得てますね。
もう得るものはあの頃得たし、死ぬまで読まないだろうな
実のところ、デリダは21歳から22歳頃かなりの熱量で読んだものだが、それ以後ある時期から極めて退屈でつまらないので読む気がなくなっている。
@Taroupho しかし「話す=聞く」という内的発話(沈黙の声)の次元と「文字=書く」という次元を切り離して後者の「根源の彼方性」(グラマトロジー)を言うだけならダメだろう。
@Taroupho アルシエクリチュールつまり「話す=聞く」に先立つ「根源的文字」の地平→ラカンの影響が大きい


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